ベンジャミン・アールが考える「マジックをリアルに近づける本質的枠組み」


突然だが、ベンジャミン・アール(Benjamin Earl)といえば、何を思い浮かべる?

パストミッドナイトでみせたあの超絶技巧?あるいは、メンタルへの熱い傾倒?

それとも、こっち?(笑)

(2013年に放送されたミニシリーズ「Ben Earl: Trick Artist」の一場面)

実際、ここ最近の彼はというと、特に大々的なリリースはなく、2012年ごろからちょくちょく20ページくらいの薄い冊子を自費出版でひっそりと出す程度だ(一部はVanishing Inc.で取り扱われている)。

ところが、今年の1月にロンドンで開催されたコンベンション「The Session」にて、2本の新作DVD「Real Ace Cutting」「Real Coin Magic」と新刊「Less Is More」(過去に発売された「Less Is More」シリーズを下敷きに新たに追加アイデアや写真を加え、デザインを一新したハードカバー本)を引っさげ、即時完売を記録。彼のメルマガによれば、今月開催の世界最大のマジックコンベンション「Blackpool Magic Convention」でもVanishing Inc.のブースにて販売されるそうで、今後(おそらく6~7ヶ月後)大々的なリリースが期待できる可能性が示唆されている。(彼のレクチャーノートでは、度々演技権が厳しく規制されていて、今作にもそれが適用されているかどうは不明)

はてさて、冒頭のベンジャミン・アールへの印象を伺った理由だが、それはこれから紹介する彼の2本のエッセイがあまりに高尚で近寄りがたいものだからだ。そして、これは私の勝手な推測だが、新作DVDのタイトルである「Real~」という言葉がエッセイの内容とリンクし、不穏な空気を感じているせいでもある。

ということで、今回はベン・アールへの今後の再始動(?)に向けて、そのいわくつきのエッセイを少し紐解いてみよう。

Philosephy | THE SHIFT
http://benjaminearl.com/category/philosophy/

サイト上には彼が2015年に発表した「This is NOT A BOX」に収録した「Real Magic」と「The Empty Space」に加筆修正を加えた2本のエッセイが掲載されている。

まず、「Real Magic」では、マジックをリアルに近づけるにあたって、その本質的な枠組みである「リアリティ(reality)」と「正直さ(honesty)」について取り上げている。(ここでいう「honesty」をどう訳すかが問題なのだが、後述される彼の考えと私なりの解釈を突き合わせると、「嘘をつかないこと」と言い換えるべきかもしれない)

彼がこの「リアルな(=real)マジシャン」という考えに至った経緯はかの有名なチャン・カナスタ(Chan Canasta, 1920~1999)の存在が発端だとしている。

チャン・カナスタとは、1950年代~1960年代にかけて活躍したイギリスのメンタリスト(左記の写真参照)。メンタルマジックのパイオニアとされる人物だ。1951年にBBCがカナスタをスポットに当てたテレビ番組を製作したのが始まりで、それから現在のダレン・ブラウンのようにメンタルマジックを重きにおいた番組をいくつも製作され、当時話題を呼んだ。

今日のメンタリズムでよく言われる「演技の中で少しミスをしても、それがパフォーマンスをよりリアルに見せ、エンターテイメントとして面白くなる」という原理を発掘した人物として知られており、ダレン・ブラウン本人も彼に強い影響を受けたと公言している。

そして、ベンは当時のカナスタがどれだけリアリティの高いマジシャンであったかを語るのだが、それを指し示す具体例が全く出てこないのがいただけない。まるで、キリストの素晴らしさを永遠と説くようなもので、きっと凄いんだろうけど、頭の中でその素晴らしさが全く想像できないのが難点だ(一応、YouTubeにはカナスタ本人の当時の映像が残っている)。

唯一出てくるのはカナスタがその当時、「マジックをする」とは言わず、番組内で好んで「実験する」と言っていたことぐらいか(そんなことはwikiにも載ってるが)。それを考え合わせると、ここでは「なるべく嘘をつかず、人々の興味をかき立てるような言葉の言い換えがカギだ」ということを言いたいのだろうか。

ベンによれば、そうしたリアリティあるマジックの本質を包括的に理解するための一助として、次の4つの前提から定義されるという。

1. マジックが本物であることを理解すること。それは主観的体験の一側面。
2. マジックの演技は実際のスキルや能力によって構成されている。
3. 開放性、正直さ、そして真実が表現され、ナンセンスといえるものは淘汰される。
4. 上記の前提に適合する言語(伝達手段)を新たに創り上げること

1) Understanding that magic is real; it is a dimension of subjective experience.
2) The performance of magic is comprised of real skills and real abilities.
3) Openness, honesty and truth are expressed and nonsense is rejected.
4) Develop language which is congruent with these assumptions.

うーん。一部はわかるけど、一部はわからない。特に①のdimensionの適当な日本語が…。彼の心理学への熱意を考えると、subjective experienceがクオリアの話のようにも考えられる。それに、②のtruthも他の言葉を天秤にかけて結局これに至ったのだが、うーん、難しい…。こうなると、彼の実際の作品を媒体にして宛がう以外に、ここから何かを読み解くことは困難を極める(本来、レクチャーノートの前文として書かれていた内容だしね)。

彼によると、これらの前提を踏まえることによって、ディセプティブ、ないしはエンターテイメントにおける価値を失うことなく、マジックを面白くも新しい方法で伝えることができるとしている。

ここから話は打って変わって、次にマジックのスキルに関する話題へ移行する。

マジックは見る者の現実を曲げたり、壊したりできる合理的なシステムだ。さもなければ、不可能な問題へ挑戦するアーティスティックな解決案の提示に尽きる。これらは熟練のプロたちの指導の下、経験的次元の中に存在する。言葉やボディランゲージ、そして演出を通して、私たちは幻覚を作り出す。何もないところからいきなり物質を出現させては、それを消し去り、最後には姿かたちを変化させることもできる。また、時には皆が気づかないまま特定のモノを別の場所へ移動させることだってできる。マジックの力を持つフリをする必要なんてない。実際に私たちはそれらを持っているんだ。ただ現実を受け入れればいい。

私たちは創造力や創意工夫、スキルを駆使して、これまでに作り上げられた最もパワフルな「あの考える機械」を欺き、彼らの現実に疑問を投げかけることができるようになった。それは本当の意味で深遠なことだと思う。これらの現実の中にあるスキルは、私たちがマジック(=魔法)と呼ぶものを作り出すために様々な要素でまとめることができる(fig.1)。

fig.1の「Model of Magic」を研究することで、自分が行っていることについていくつかの「ハイレベル」な思考を作り出すことができる。モデルの各カテゴリーから1語を取ると、その方法論について何も語らずとも、マジックには本当の意味で偽りがないということをはっきりと表現することができる。それこそ、マジックは次のように記述できる。

・創造性、注意力、動き
・表現、知覚、器用さ
・プレゼンテーション、期待感、調整
・ショーマンシップ、感情、練習
・構成、知能、スキル
・演出、親密さ、タイミング
・スタイル、時間、バランス

これらの組み合わせはコインバニッシュや簡単なカードトリックひとつとっても、自由に記述することが可能だ。とはいえ、私はマジックが何であるかを定義したいわけではない。このようにマジックを見つめていくことで、マジックを基礎レベルで行う時でさえ、どれだけの要素が絡み合っているのかを視覚化し、新たな刺激として培われることを願っている。マジックを行う際に使われる多彩なスキル、能力、原理には無限の組み合わせがある。これらの要素を詳しく見ていくと、それをどのように特定するかがカギだ。おそらく、これはパフォーマーとしての可能性を広げてくれるはずだ。観客たちと新たな関係を構築し、ナンセンスな話や疑似科学を振り払いながら、自身の仕事に誠実さ(honesty)と寛容さ(openness)をもたらす。

私にとって、リアリティはマジックを素晴らしくしてくれる。トリックは氷山の一角に過ぎないのだ。一皮むけば、さらに興味深い世界が広がっている。自分の仕事に誇りを持ち、現実を受け入れてほしい。これはインテリぶった大げさな話ではなく、私たちの存在を哲学的なものにするための疑似的な新しいポエムなんだ。

訳がもっと上手ければ、それなりに高尚な内容として読みふけることができたかもしれないが、それでも無批判に鵜呑みにできるものではない。すべてが間違っているわけではないにしても、どこか浮世離れした若者によくありがちな、尖がった印象を受ける。

そして、2つ目のエッセイの難解度はこれのさらに上をいく。

内容は「マジックモーメント(the magic moment)」の心理的体験や事象に関する哲学的、かつ芸術的考察…。この文は彼の言葉を引用したものだが、この時点でより一層難解な雰囲気を漂わせている。それもそのはず、本稿は2017年のカンファレンスに向けて、この心理的事象をより心理学的な言葉で言い表した学術論文を執筆中とのことで、ホームページ上で公開されているのはその当時(2016年6月)の最新版。

ちなみに、本稿では、「マジックモーメント」の歴史について一切説明がないが、元々はマイケル・スキナー(Michael Skinner, 1947~1998)の言葉が由来。ケン・ウェバー(Ken Weber)の「マキシマム・エンターテイメント」(P.114)によれば、マジックモーメントとは、手順の中で何かを行った結果、マジックが起こる、その瞬間のことを指すとしている。要はマジックは道具によって勝手に起きるものではなく、マジシャンがそこにいてはじめて起こるものであり、そうしたマジシャンの手で生じた変化の瞬間を「マジックモーメント」と呼んでいる。

ところが、ベンは「マジックモーメント」の定義を不思議な体験や驚きの瞬間とし、この表現では、ただマジックモーメントが起こった後の反応を言い表しているに過ぎないという。そして、彼はこう続ける。

厳密には不思議さや驚きを感じる少し前の感覚を言い表したい。無論、不思議さや驚きを感じる少し前とは、一体どういう状態なのかという問いが待っていることだろう。実際のところ、マジックモーメントとは一体何なのか?私はこうした体験における論理世界を「空白の状態(The Empty Space)」と呼んでいる。

「空白の状態(The Empty Space)」とは、観客の時間感覚や空間、自己すら持たない何の意味もない、形態すらも欠いた世界を言い表している。観客は意識や現実を知覚する、それこそ原始的な感覚の崩壊を体験し、代わりに前後関係を理解する力から解き放たれる。これこそがマジックモーメントだ。言うなれば、それは空白の感覚、乖離、思考停止、感情や行動、麻痺、そして完全な無…

本当にこの内容で学術論文と銘打つつもりなのかいささか疑問が残るところだが、彼が言わんとしていることは、すなわち観客がマジックを見た際に起こる「思考停止状態」ということだろう。本当はあと500ワードほど彼の語りが残っているのだが、これに関する科学的な裏付けは皆無だ。「具体的な心理学用語(in concrete psychological terms)で」とか言っているが、内容はもはやpsychologicalというよりpsychoanalytical(精神分析学的)だ。そこにちゃんとした論理が介在していれば、哲学(philosophy)といえるのだろうが、突拍子もないという意味で、ここではあえて精神分析学と表現しておく。

確かに、マジックという現象は見る者の頭の中に存在する。だから、それについて私たちがどう体験しているかを記述しようとすれば、そこには必ず主観が入り込んでくる。それでも、マジックをそこまで高尚に崇めたてまつる必要もないのではないか。映画を見るように、ミステリーに親しむように、レジャー施設で遊びほうけるように、日常の中でもマジックを見た時と似た体験を覚えることがある。神経科学的、もしくは生理学的に必ず似た体験をしているはずなんだ。マジックの中に映画があり、映画の中にマジックがあるといってもいいくらい相互的な関係にあるはずだ。おそらく、きっとマジックを見ることでしか経験できない特質もあるかもしれない。だが、今のところ、それを指し示す科学的な証拠は一切ない。(はずだ)

それを考えると、「The Empty Space」の中でそれを検証する方法について書かれていれば、もっと面白かったのに…。