(今回は一番嫌いな話なので、ちょっとラフに書きます)
Q. メンタリズムとは何か?
A. さあね。知らない。別になんでもいいんじゃない?好きにすれば。
メンタリズムとメンタルマジックの違い。これは正確にはちゃんと定義されていない。だから、よく国内外の掲示板とかでその手の議論は、現れては消えるの繰り返し。公式の見解ってのもない。
定義されていない言葉を自分なりに定義しようとも、恣意的に主張しようとも、結局、全部正解だ。
例えば、「金持ちは性格が悪い」という主張があったとする。これについては、よく賛成派や反対派に分かれて議論を戦わせることがあるが、結局、この主張にはいくらだって肯定も否定もできる。そして、それぞれの主張はどれも正しい。
なぜなら、「金持ちとは何か?」「性格が悪いとは何か?」をそれぞれにちゃんと定義していないからだ。それゆえ、この主張を見た人、聞いた人にその定義を委ねている。
つまり、いくらでも捉えられるがあるということだ。
メンタリズムもまた同じで今現在定義されていない以上、その言葉の歴史や変遷もいくら掘り下げても意味はない(てか、歴史について語る奴に限ってそのソースを示さないっていうね)。過去にどうであったか、今自分はどう捉えているのか、どちらにしろ、それは全部正しい答えだ。
それに気づかずにメンタリズムについて熱弁をふるう奴は最近メンタリズムという言葉に出会って現在少々興奮気味なのか、自らが編み出したその定義に酔いしれているかのどちらかだ。
いや、どちらも同じ意味か(笑)
メンタリズムについて語るとき、考慮すべきこと
「メンタリズムとは何か?」「マジックと何が違うのか?」って話をする時に皆ある前提を(暗黙の了解として)無視している。だから、それについて議論しても、いまだに誤った理解が絶えない。
で、その前提ってのが「この世には神も幽霊も超能力も占いさえも存在しない。そんなものはただの幻想に過ぎない」ってことだ。
よくニセ占い師とかニセ霊能力者って言葉があるが、ああいった言葉の中には暗に「この世界のどこかには本物の霊能力者が存在する」なんていう願望が内包されているような気がしてならない。きっと心のどこかでそう願っている人もいるはずだ。
ところが、こういう表現が理解を妨げる悪しき概念となっている。
では、この世に本物の超能力がいるかもしれないと仮定して、ごく一般的なメンタリズムについて説明しよう。
・メンタルマジックとは、マジシャンが演じる作り物として割り切れたエンターテイメント
・メンタリズムとは、メンタリストが演じる疑似的なサイキックデモンストレーション
はて、ここでいう疑似的なサイキックデモンストレーションとはどういうことなのか?
少なくとも、「霊感商法で金を巻き上げる詐欺師」と「あくまで娯楽目的のパフォーマー」という2通りの捉え方ができる。これは見る人の信念によって変わる。
ここがポイントだ。2つの異なる解釈ができる言葉をそのまま放置した状態で議論すれば、そりゃあ、まともな理解がなされるわけがない。そんなのはお互いの気持ちを語り合うグループセラピーと何ら変わらない。仮に個々に進歩があったとしても、話は一向に進まないのと同じだ。
これに関しては、メンタリズムを持ち込んだDaiGoも同じ過ちを犯している。当時、彼はメンタリズムを「超常現象を科学やロジックを使って再現すること」と定義した。
その一方で、彼は「この世に超能力や超常現象の類は存在しない」とは一切主張しなかった(テレビ向きの人間だからあえて言わなかったか、言っても編集でカットされたか定かではないが、彼の著書も「超常現象は科学で再現できる」の一点張りだ)。
もちろん、暗に示していたとされる発言は当時多々あった。例えば、彼はユリ・ゲラーや過去に超能力者として世間を騒がせた人々の名を口にしては、「メンタリズム的には~~」と度々語っていた。彼の示したメンタリズムの定義に当てはめれば、彼らも超能力者のふりをしていた人種だといえる。
だとしても、これは「この世には超能力は存在しない」という意味とけっしてイコールにはならないし、そもそもそんな暗に示した主張だなんて一般の視聴者が理解できるわけがないだろ。
(相当くだらないことを言わない限り、一方的に垂れ流される情報に皆そんなに興味を持って見てはいない)
「僕的にはあれもメンタリズム」なんて言い方も論外だ。
超能力も超常現象も占いも全て妄想だと、そうセンセーショナルに宣言してほしかった、いや宣言するべきだった。
しかも、終いにはそこから「(ニセ)霊能者が使うテクニックは人間の心を開かせる技術なんですよ」→「同じ技術を使えば、仕事も恋愛も人間関係もうまくいきます!」→「皆さんも使えるようになったら、僕も幸せです」へとシフトしていったため、事態はよりややこしくなっていた。
メンタリズムへの恣意的な定義
それでも、やはりメンタリズムという響きがいい。それはよくわかる。
「マジック」という単語が入っていない以上、どうしてもマジックとは別の何かに仕立て上げたくなってくる。自分なりに色々と考えて、定義して、分類する。それなりにこれが答えなんじゃないかって感覚を覚えるのは気分がいい。
だが、至極どうでもいいことだ。
例えば、「メンタリズムは心理的な技術を使って~」なんていう考え方がある。まるで、マジックが指先のテクニックとギミックのみで成り立っているかのような言い方だ。きっとマジックそのものにはほとんど触れたことがないからそう言うんだろう。
でも、実際、マジックだって心理学的原理を日々使っている。
ミスディレクション然り、ブラックアート然り、デプスイリュージョンだって、クラシックパスのサッカードだってそうだ。そういう視点に立ってみれば、他にもいくらでも出てくる。(気になった奴はマクニックの「脳はすすんでだまされたがる」でも読んどけ)
こういう曖昧な定義をする奴は大概自分がそのマジックをやりたいかどうか、今後やってみたいかどうかで、いくらでも自身の主張に修正をかけやがる。そして、それがほぼ真実であるかのように、また巧みな戦略であるかのようにペラペラしゃべる。
というか、そもそも、そんな言葉なんかに依存するのもどうかと思う。業界では、メンタリズムが占いを含めた霊感商法を指す言葉として使うこともあれば、メンタルマジックの同義語(マジックという体でサイキックパフォーマンスを行うこと)として使われることも多々ある。
これを間違っていると指摘する人もいるが、結局、言葉なんてそんなものだ。1つの単語の中に複数の意味が内在し、時と場合によって言葉の意味が変わる。
日本なんてまさにそう。日本で言われるメンタリズムの一般的な認識というと、心理学ビジネスかフォークを曲げるマジック、それかDaiGoがやってたやつくらいの話だろう。
そういった言葉の性質を無視して、自分の考えを人に押しつけたり、他人を非難する奴を見ていると、マジでウザいと思う。それを聞かされてる人のことを思うと、もうまさに「心中お察しします」って感じだ。
もちろん、メンタリズムの定義というのは「説」としては面白い。まるで都市伝説のような感じで妄想にふける分にはちょうどいい。だが、マジック用語の統一辞典でも作らない限り、それが限界だ。
個人的には現時点(2017/05/10)で、メンタリズムのWikiもないんだから(メンタリストはあるけど超スカスカ)、誰か自分なりの主張を支持するような内容を適当に作ってみても面白いかもしれない。どうせ、誰も英語で調べようとする奴なんていないんだからさ。
経験上、Wikiの信頼性は大概そこに書き込まれた文字数によって左右されると思う(いわゆる満足感みたいな感じかな)。DaiGoの話は一番下にちょっとだけ載せて(彼が好きなら別だけど)、あとは自身の思想を形作った好きなメンタリストを片っ端から引用すれば完成だ。
ケン・ウエバーが語る「メンタリズムとメンタルマジックの違い」
メンタリズムとメンタルマジックの違いについて語られた邦訳本として、ケン・ウエバーの「マキシマム・エンターテインメント」が挙げられる。人によっては、情報鎖国によってこれが答えだと考えている人もいるかもしれない。
300ページあるこの本自体も非常に内容が良いし、幾多の著名人たちも本書を薦める名著でもある。そのため、ボーっと読んでると、全部が全部正しいように思えてくる。ところが、こと第16章の「メンタリズム」の項になると、一部くだらない意見が散見されるようになる。
例えば、ウエバーはメンタリズムとメンタルマジックの違いをこう指摘している。
「現在活躍中のメンタリストの中でもトップクラスの人たちは、道具としては全く怪しさが感じられないモノだけを用いています。(中略)紙、鉛筆、普通のテーブル、本、などがその例です。一方、メンタルマジックでは、道具そのものに、よりハッキリと観客の関心を向けられるような道具が用いられます。普通見かけないようなスタンド、時計、カバン、箱などなど」(P. 253より)
なんとまあ、恣意的な分析であろうか。
話の趣旨は観客がどう感じるかってことのはずが、最終的には「観客たちはきっとそういう風に見ているはず」だとする自身の主観に終始している。
もしこの分析が正しいとするなら、タロットはどうなのだろう?これも観客の関心を強く惹く道具の1つであるはずだ。だとすると、これもメンタルマジックなのか?(笑)
こんなことを言っても、どうせ取ってつけたような理由を並べて、自分の仮説が間違っているという感覚を抱くこともなく、無意味な論理を展開するんだろう。(あるいは、タロットは占いなんかでよく使われるからとか言って日用品の仲間入りを果たすのかな?)
実にくだらないな。
これ以外にもウエバーは同章の中で、正気とは思えないような論理をこれでもかと指し示している(あくまで多分に含まれるという意味だが)。
他の290ページ分の内容は価格に見合う、実に上質な知見を提供してくれるというのに。(まあ、半分くらいは当たり前の話が続くが、マジックを知らなかった時の自分を見失い、何が正しいのかもわからなくなった迷子には良い矯正本だ)
メンタリズムとメンタルマジックを見分ける方法
「どいつもこいつも定義がクソ。てか、そんなの分類しようした時点で終わってるだろ!」みたいな論調でずっと書いてきたが、最後に、各人の意見主張を打ち破るとある論説を紹介したい。
これはボブ・キャシディ本人が生前、The Magic Caféで同様のスレッドを立てた際に自著「The Artful Mentalism of Bob Cassidy」から再掲した内容である。
The Difference Between Mentalism and Mental Magic | The Magic Café
http://www.themagiccafe.com/forums/viewtopic.php?topic=498211&forum=15
<今、自分がメンタリズムとメンタルマジックのどちらを行っているのかを見分ける方法>
パフォーマンスを行った後、観客たちの声に耳を傾けてみよう。
もし、観客から「どうやったの?」「他のマジックも見せてくれない?」と聞かれ、そこで自分が「はい」と答えたとしたら、あなたはメンタルマジックを行っているとわかる。
一方、「どこで習ったの?っていうか、それって生まれつきなものなわけ?」「いや、こっちに来ないで!私の頭の中に入らないで!」といった反応が返ってきた時、あなたはメンタリズムを行っているとわかる。
両者は共に人間の知覚や聴衆のフィードバックを利用している。
だが、パフォーマンスの先にあるであろう、エンターテイメントの目的が異なるとした定義したとき、示した力によって人々を信じ込ませ、且つ依存させることができるという点については、メンタリストは倫理的な責任が伴う。
よくある第三者の視点から原理や現象を分類するのではなく、観客主体で考えるこの発想は実に素晴らしいと思う。
これならば、マジシャン側から見て、それがいかに冗長的な手順だったとしても、明らかにそれがマジックグッズの1つだと見て取れても、観客がそれをマジックだと認識しなければ、それはメンタリズムとなる。
このキャシディの主張に賛同できない者いるだろう。じゃあ、サイコロジカル・メンタリスト(自身のパフォーマンスを心理学の応用みたいな表現する人のこと)=メンタリズムを行う人なのか?と(厳密にはそれに含まれると言いたいところだが)。
重要なのはその場で実演してもいない状態の中で、それがメンタリズムなのか否かを議論するのは間違っているということだ。サイコロジカル・メンタリストもその場でそう主張し、それがすんなりに受け入れられればいいが、そうでない場合もある。
両者ともにそれを見る人がいなければ、成立しえない。にもかかわらず、どうもメンタリズムが上で、メンタルマジックが下であるかような感覚を覚える。ウエバーの本の中にもあったが、メンタルマジックは完成度の低いメンタリズムであるかのような論調だった。
この議論では、よくセオドア・アンネマンの有名な言葉が引用される。「メンタリズムとは、マジックが成長した形である」と。
それぞれが演出の違いだとすれば、すんなり解決しそうなのに、なぜか作品ごとに、原理ごとに分けたがる節がある。そして、それはなぜなのかと考えたとき、作品の優劣でそう言っているだけではないかという考えが浮かぶ。クソみたいなネタを端に追いやりたいがゆえに。
わかってる。だから何なんだ?って話だ。
だが、もし本当に君が今そう思ったのだとしたら、私の言いたいことが伝わった気がする。