世界最古のマジック本、レジナルド・スコット、1584年…。これらの言葉から連想される答えは「妖術の開示」だ。これはマジックをかじったことのある人なら、一度は見聞きしたことがあると思う。また、マジックの歴史を語る上で切っても切り離せない重要な書物として幾度となく語り継がれてきた。
とはいえ、あまりにも当たり前すぎる存在ゆえか、その中にはいくつかの誤解が含まれることがある。
今回はそんな「妖術の開示」にまつわる3つの誤解について紐解いてみるとしよう。
誤解1:世界で初めてマジックの種明かしをした本
驚くなかれ、「妖術の開示」は世界で初めてマジックの種明かしをした本ではない。ならば、世界初のマジック本とは何なのかと問われるところだ。
「日本奇術文化史」(P.336-338)によれば、日本初の奇術の伝授本である「神仙戯術」(しんせんげじゅつ)の元となった本、すなわち1510年に中国で発行された「神仙戯術 上・下」の存在が2016年に確認されたことがわかった。この事実をもとに、共著者の1人である河合勝は自身のサイト「日本奇術博物館」にて、これが世界最古の種明かし本にあたると主張している。
とはいっても、「妖術の開示」はもっと前から”世界初”という称号を剥奪されたのようなものだった。
「アブラカダブラ 奇術の世界史」(P.14)によれば、1584年にフランスで世界初のマジック本「Première partie des subtiles et plaisantes inventions(巧妙にして楽しい奇術ー第1部)」が発行されたとある。これは妖術の開示が書かれた年代と同じ年で、本書ではこちらの方が先だと指摘している。
ところが、現在では、1581年に英語で初めて書かれたマジック本の1つとして、「A Brief and Pleasant Treatise」という文書が確認されており、妖術の開示はもはや英語で書かれた最初の文書でもなければ、世界第2位という微妙な立ち位置にあるわけでもない。完全に陥落している。
誤解2:「妖術の開示」はいわゆる手品の解説本
マジックの歴史を語る上で、「妖術の開示=手品の解説本」という結びつきで簡単に紹介されてきたせいか、本書がいわゆる種明かし本のルーツであるかのような印象を持っている人は多いと思う。
だが、マジックのタネについて触れられたのは(版ごとに異なるが)全体のわずか10分の1程度に過ぎない。
本書が発行された16世紀後半のイングランドでは、キリスト教がすべてを支配していたと同時に、魔女狩りが横行する時代でもあった。「ひどい嵐が続くのは悪魔のせいだ」「作物が育たないのは魔女のせいだ」といった人々の恐怖心が迷信を煽り、それがキリスト教と強く結びついたことが引き金だといわれている。
そんな宗教の盲目的な暴走に一石投じようとしたのが著者であるレジナルド・スコット(Reginald Scot)だった。彼は魔女に関する迷信について懐疑的な見解を示し、また当時、魔女狩りに異を唱えていた先駆者的存在であるヨーハン・ヴァイヤーの著書を一部英訳し、本書の中で取り上げている。
ちなみに、こうした歴史的背景を念頭に入れると、この「妖術の開示」というタイトルも、どこか誤訳めいたところがあると思う。それどころか、この訳こそが本書を単なる種明かし本っぽく貶めた印象さえある。
原題である「The Discoverie of Witchcraft」の「discoverie」とは、隠されていたものが表に現れるという意味での「発見」や「解明」といったニュアンスが強い。加えて「witchcraft」を妖術と訳しているが、これだとどうしても陰陽道に通じた日本的な感覚を覚え、いささか西洋文化と結びつかない。
故に、これらを踏まえて、改めて訳し直すならば、本書は「魔術の真相」や「魔女の正体」という言葉の方が正しいのではないだろうか。
(無論、「妖術の開示」の方が明らかに古めかしく、重々しい言葉ではあるから、訳語というよりも意味的な部分として留めるべきなのだろうが)
誤解3:著者はマジシャンである
<誤解2>のこともあってか、よく勘違いされるが、著者であるレジナルド・スコットはマジシャンではない。
本職は議会議員で、経緯は不明だが、マジックを生業としていたフランスのジョン・コートール(John Cautares)に協力を仰ぎ、種明かしのパートを書き上げたとされている。
たしかに、当時はショーとして不思議なことを見せていた人々(=マジシャン)も悪魔崇拝や魔女のレッテルを貼られ、一部処刑の対象となっていた。だが、その事実を誇張させ、さもレジナルド・スコットというマジシャンが彼らを救うために立ち上がったという論調で伝わっていることもままある。
今一度、そうした誤解を払拭して考えてみると面白いかもしれない。宗教が法であり秩序だった時代に一介の議員が政府の見解に抗い、世の中に一石投じようとした彼の行動は歴史的にも価値あるものであったと容易に想像できる。
まあそれもあってか、本書の発行後、時の権力者だったジェームズ一世の怒りを買い、そのほとんどが焼き捨てられてしまったそうだが…。